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コラム

風水という科学

2017.08.03

ArchiFuture's Eye                  ノイズ 豊田啓介

先週約1年ぶりにシンガポールに行ってきた。2日だけ打ち合わせオンリーの缶詰出張だっ
たのだが、移動の合間、まだ見れていなかったOMAのThe Interlaceをちょっとだけ見ること
ができた。ハニカムグリッド上に同じ形、同じ要素が繰り返し展開された巨大な積み木のよう
な構成は圧倒的なメガロポリス的迫力に満ちているし、日本と違って北向き、南向きという違
いが意味を為さないシンガポールならではの構成に、知的に上手いなあと改めて唸ってしまっ
た。
 
そう、シンガポールは赤道直下にある。季節による変動はあるものの、北からも南からもほぼ
等価に日光が降り注ぎ、その豊かな光量と十分な湿度(と政府により絶えず維持されるメンテ
ナンス)は高速の高架下であろうと超高層ビルの壁面であろうと、あらゆる場所に豊かな植栽
群を生き生きとはびこらせる。考えれば当然の話だが、日本の当たり前は赤道直下の当たり前
ではないし、もちろん南半球に行けば当然また異なる。こうした普段疑問に持つことがないリ
アリティへの考察は、改めて地域特性というものの多様さを浮き彫りにしてくれる。
 
ノイズではパートナーが台湾人で台北事務所があるということもあり、中華圏での仕事が多い。
中華圏ということで、やはりクライアントにはおしなべて「風水」を気にする人が多い。その
程度はさまざまだが、最初にそんなもの気にしないよと宣言する人でもどこかで気にする局面
がでてきたりするので僕らも無視できないし、言われる前にあらかじめいろいろ考える。
 
風水というと今日のラッキーカラーは紫!みたいな話が多くて辟易するが、そのすべてが迷信
かというとそんなこともない。少なくとも中国という地域・気候・風土における、様々な臨床
的・経験的な蓄積としての知恵が重層的にからまった、集合としての社会知のかたちであるこ
とには違いない。例えば建物の北側を凶(もしくは陰)とし南側を吉(もしくは陽)として重
視する感覚は、地理的に近い日本人ならなんとなくわかる。やはり南側は気持ちいいしものも
乾いて健康的だ。一方建物の北側はどうしてもじめじめするし、日本では植栽もなかなか根付
かない。悪い虫や腐敗などは北側から進むというのも経験的に正しいと言えるだろう。そもそ
も自然のエネルギー循環がほとんど太陽エネルギーに起因している以上、その源としての太陽
のある方向になんらかのポジティブな印象を抱くのは必然でしかない。そういうものの総合的
なイメージとして、例えば龍脈・龍穴のようなものもなんとなくだが臨床的な傾向の体系化と
して、あながち否定はできないように思う。
 
でも、そこにはおそらくは現象的・臨床的な合理性に基づいたというより、むしろ根源的な心
理に基づくもの、あるいは生理的なものも多分に含まれているように見える。おそらくは十分
な統計を取ったところで、その優位性は証明されないだろうという類のものだ。
 
有名な例では、香港のダウンタウンに建つペイの中国銀行タワーがフォスターのHSBC香港本
店ビルに鋭角な角を向けて、風水を裁ちにかかっているなどというものがある。刃物の刃先を
こちらに向けられることが生理的に気持ちが悪いので避けるということ自体は、個々の生体レ
ベルにおける防衛本能としては正しいのだろう。ただ、それが誰かが持って凶器として使うな
どということが不可能なスケールの構造物に適用されたとき(例えばナイフの代わりに同じ形
の超高層ビル)、その形態そのものに一体どれだけの実効的な危険があるというのか。台湾で
設計の仕事をしていると、例えば向いのビルの側面の延長線がこちらのビルにぶつかるところ
に、その気の流れによる邪悪な切断効果を止めるのに、水や木の塊などで受けを設けるように
求められる、などということがある。感覚的にわからなくなくもないでもない気もしないでも
なくはないが、現代のオフィスビルでそれをやることにどれだけの意味があるのだろう。
 
例えば台湾でマンションの内装計画をしていて頻繁に出くわす例として、梁の下に枕を配置す
るのはNGというものがある。おそらくは昔の木造や組石壁に木梁で構成された建物では、何
らかの理由で住宅が倒壊した時に一番危険なのは確かに梁の直下で、梁の間に寝るほうが何ら
かの隙間で生き延びられる可能性があったということは経験則として十分に考えられるし合理
的だとも言える。夜中にはネズミなどもフンだらけの梁の上を走り回っただろうから、その直
下に頭を置くのは衛生上など諸々の理由でも避けるべきだったかもしれない。ただ、現代の鉄
骨やRCのマンションでしかも天井も貼て完全空調環境で計画される高級マンシンの内装
で、梁下にベッドの頭を配置することを何がなんでも避けることの合理性は、一体どれだけあ
るだろう。現代の構造ならむしろ崩落の危険性が(少しでも)高いのはスラブ部分だろうし、
そもそもそんな高層ビルで主梁が崩壊していたらどのみち人が助かるような状況ではない。知
見だけはそのままに、適用する世界のほうが大きく変わってしまっている。武田の騎馬隊の必
勝法を日本海海戦に当てはめても大して意味はないだろうし、ましてやステルス戦闘機による
Desert Storm作戦環境ではほぼ何の意味も持たない。
 
そもそも風水師なる人たちは設計の最後の段階になってフラッっと現場にやってきて、もっと
もらしい顔であちこち歩き回った挙句ちょっとした呪文みたいなものを唱えて僕らの設計に適
当な文句をつけて帰っていく。こちらはそれで実施図面も終盤にきて大変更だし予算はおさま
らなくなるし、風水師はその数時間の蘊蓄で僕らの設計料と同等以上のお金を持っていき、僕
はやけ酒の出費が増えることになる。いや風水師マジやってらんねーっす!!!となることも
実際多いけれど、社会とはそういうものだ。
 
さて、そうした因習が現代の技術環境では「ほぼ何の意味も持たない」と言ったが、「科学的
合理性という尺度の上では」、という注釈を忘れていた。なんだかんだと我々の体に染みつい
た感覚や感情というものもまた人間の不可避な一部であって、それもまた科学的合理性と同等
かそれ以上に大事なものだということもまた、日常生活を送る上では正しい。朝、神社の前を
通るときに立ち止まって一礼していく近所の人に僕は何か好意を抱くし(僕はしないけれど)、
地鎮祭をしないとどうも座りが悪いという感覚もわからないでもない(僕はその分設計料に回
してほしいけれど)。そもそも合理性の名の下に過去の因習を破壊しつくすという行為こそ、
20世紀の大きな反省であったはずだ。その単純な二項対立の間には、特にこの新しい技術環
境の下では、より繊細に、より相互が活きる形で動的に融合させる方法が、メンタリティが、
もっともっとあり得るように見える。
 
台湾からのお土産で喜ばれるものに、台湾の金物屋ならどこでも売っている風水コンベックス
がある。見た目は日本の現場でも普通に使われているコンベックスなのだが、台湾の設計や現
場でクリティカルな、風水上のラッキーナンバーがちゃんと振ってあるすぐれものだ。旧暦に
大安吉日があるように、風水の寸法にもそれぞれに吉凶がある。テーブルや椅子の高さ、天井
高などに不用意に設計資料集成の数字を適用したりすると後で現場修正の憂き目にあうことも
多いので、こうした数字を設計段階から踏まえて設計することは台湾案件では欠かせない。そ
もそも尺寸法で育まれたはずのラッキーナンバーが、メートル法の寸法体系で振ってあってい
いのかとか言い出してはいけない。僕らだって太陰暦ベースの正月や節句を太陽暦で祝うし
祝った方が気持ちがいい。そういうものなのだ。
 
ノイズでは、上記のような風水寸法チェッカーとでも言うものを、Grasshopperのプラグイン
で導入しようとしたことがある(自動的に設計をラッキー寸法の集合に修正してくれるなど)。
今でもいつか実装したいと思っているのだけれど、正直なところDeep Mindを導入しても難し
そうな気配だ。というのも、一応コンベックスとして製品化されているし、さすがにラッキー
ナンバーの体系自体には社会的コンセンサスがあるだろうと思っていたのだが、どうやら何が
吉で何が不吉かという解釈自体、クライアントや風水師の数だけあるらしい。結局のところデ
ザインという形で問いかけて、クライアントにしっくりくるかどうかを試すしかない。

そんな建築という世界が僕は好きだ。

豊田 啓介 氏

noiz パートナー /    gluon パートナー