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コラム

情報・物質・カルマパ

2015.10.29

ArchiFuture's Eye                  ノイズ 豊田啓介

義妹の結婚式で、インド北部にあるダラムサラに行った。
 
ダラムサラといえばチベット亡命政府のある街だ。新しい僕の義弟はチベットの戦闘的部族出
身で、ダラムサラのカンチェン・キションで育ち、毎朝ダライ・ラマにミルクを届けていたと
いう折り紙つきの現代のチベット人だ。厳しい政治的現実と先の見えない静かな闘争の中に
あって、ダラムサラのチベット人は本当におおらかで国際的で、同時に内に秘めた強靭さも感
じさせてくれた。
 
今回、現行の亡命体制の中で実質的にダライ・ラマに次ぐ高位にあるとされるカルマパ*1に会っ
て、少しだけ話しをする機会があった。
 
一つ質問をしていいということだったので何を聞こうかいろいろ考えた。で、あえてこの機会
だから、(考えれば考えるほどその境界が不明瞭になってくる)物質と情報との関係性、また
それらの認識主体としての精神(もしくは人間)との関係をカルマパはどうとらえているのか、
というかなり仕事モードの疑問を投げかけてみた。
 
もちろん僕の質問はデジタル技術や現代の情報科学、生命記号論のような文脈からくる純粋に
実務的な視点からなのだが、それはカルマパのような立場の人からは、どうとらえられるのだ
ろう。常に宗教や哲学、人の認識や心のあり方といったことを社会的なリアリティを通して構
造化し、言語化し、伝えるということをしている人はどう表現するのだろう。
 
質問すると若いカルマパは特に表情を変えるでもなく、小さくWowとつぶやいて床を見つめた。
しばらく考えた後彼がくれた回答は、おおまかにこんなものだ。
 
「現代社会では物質にどうしてもとらわれすぎてしまう。忙しい、いろんなものに追われる日
常の中で、どうしても我々は目に見えるいろんなものに囚われてすぎて、それらの事象を根を
つめて考えすぎてしまうのではないか。ちょっと立ち止まって、あらためてそうした物質的な
ものを見直してみると、あらゆるものの間にはすき間があって、物質的なものから解き放って
くれる何かがある。そこをもっと感じるようにしてみてはどうか。」
 
情報と物質という本来二項対立的にとらえられがちなものをあえて連続的なスペクトルとして
とらえられるのか、さらにはそこにそれを第三者的に認識する主体としての人間を導入すると
どうなるのかという僕の提示した図式に対してそもそも図式が異なるし、マテリアリスティッ
クな現代社会の傾向、その間や背後に再発見できる精神性といったステレオタイプな回答にす
りかえられてしまった感じもある。実際その時は正直拍子抜けな印象も受けた。が、後でじっ
くりと噛み締めるほどに、なかなか味のある回答でもある。
 
いろんな意味、スケールで創造的に解釈をしていけば、なるほどいろんな解釈の糸口があよう
にも思える。カルマパの視点でそれらをどう位置づけるかという、僕が勝手に提示した若干意
地悪な世界観の押し付けに、彼は無理に擦り寄ることもなく、自分の言葉で実直に答えてくれ
た。以前は詰まった個体だと思われていた物質も分子も原子もそしてさまざまな量子も、知れ
ば知るほどにその実体は空虚で、実在の感覚的な定義も、物質と情報との区分けも難しくなっ
ていく現代の我々の知の限界に、驚くほどにパラレルな内容でもある。僕のどこかに質問でカ
ルマパをやり込めてやろう的な部分があったところも否めない。そもそもこんなことを常に考
えている究極の目的は何なんだろう。名誉欲?事務所の成功?日本建築界の未来?人類?宇宙?
 
あんまり考えすぎても詰まってしまう。たまには少し立ち止まって、詰まって見えるいろんな
事象のスケールを離れて、多様な空間に思いを遊ばせてみることにしよう。


*1  ダライ・ラマは現代チベットの政教を統合する最高指導者だが、本来はチベット仏教最
    大派閥であるゲルク派の教主の名称で、現在中国政府に拉致されたまま行方不明となっ
    ているパンチェン・ラマもゲルク派に属する。カルマパは第二派閥であるカルマ・カギュ
    派の教主にあたり、現ダライ・ラマが転生を否定したため次の実質的指導者と目されて
    いる。

豊田 啓介 氏

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