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コラム

データが拓く建物の使いこなし

2026.04.16

パラメトリック・ボイス
                     東京大学 / スタジオノラ 谷口 景一朗


建築分野における脱炭素化の議論は、近年「ホールライフカーボン(Whole Life Carbon)」
という考え方によって大きく広がりを見せている。これは、建物の運用時のエネルギー消費
だけでなく、資材製造、施工、更新、解体に至るまで、ライフサイクル全体でのCO₂排出量を
対象とする視点である。こうした動きは制度面にも現れ始めている。国土交通省は、2028年
度を目途に、延べ面積5,000㎡以上の新築大規模ビルなどを対象として、建設から解体までの
生涯CO₂排出量(LCCO₂)の算出・届出を義務化する方針を示している。また、その算定を支
援するツールとしてJ-CATJapan Carbon Assessment Tool)」の開発も進められている
これにより、ホールライフカーボンは一部の先進的な取り組みにとどまらず、実務の標準的な
プロセスとして位置づけられていくことになるだろう。
 
このとき、これまで十分に評価されてこなかった既存建物の価値が、あらためて注目される。
従来、既存ストックは「更新対象」あるいは「性能的に劣るもの」として扱われることが多
かった。しかし、ホールライフカーボンの観点に立てば、既存建物はすでに多くのエンボディ
ドカーボンを内包しており、その解体や建替えは新たな排出を伴う。つまり、「使い続けるこ
と」自体が一つのカーボン削減戦略として意味を持つ。この議論は、構造体の長寿命化や用途
変更といった物理的な側面で語られることが多いが、ここではもう一歩踏み込んで、既存建物
を「データ資産」として捉える視点を提示したい。
 
現在、多くの非住宅建物にはBEMSや各種IoTセンサーが導入され、室内環境やエネルギー消
費、設備の運転状況といった詳細なデータが日々蓄積されている。これらは単なる記録ではな
く、建物固有の使われ方や環境応答を反映した、いわば“実測に基づく知見”である。設計段階
では仮定に頼らざるを得なかった内部発熱や在室状況も、既存建物では実データとして把握で
きる。設計と運用の乖離は、多くの実務者が感じている課題である。エネルギーシミュレー
ションの結果と実際の運用が一致しないのは珍しいことではない。この乖離は、ホールライフ
カーボン評価の精度にも影響する。一方で、既存建物のデータを活用すれば、現実の運用に即
したモデルを構築し、改修や運用改善の効果をより確からしく評価することができる。
 
さらに重要なのは、こうしたデータが個別建物にとどまらない点である。複数の建物にまた
がってデータを蓄積・比較することで、用途や規模、地域特性に応じた実態ベースのベンチ
マークが形成される。これは、設計初期における設備方式の選定や改修方針の検討において、
より現実的な判断材料となる。既存建物のデータは、将来の設計や運用に活かされる「共有資
産」としての側面を持ち始めている。また、既存建物における改修は、ホールライフカーボン
の観点から見ても重要な意思決定の場である。設備更新や外皮改修は、短期的には新たなCO₂
排出を伴うが、長期的な削減効果とのバランスで評価する必要がある。このトレードオフを適
切に判断するためには、改修前の実態データと改修後の効果予測を結びつけることが不可欠で
ある。一方で、データ活用には課題もある。建物のライフサイクルは長く、その間に設計者、
施工者、オーナー、運用者といった主体が変わることも多い。データが適切に引き継がれず、
活用されないまま埋もれてしまうケースも少なくない。ホールライフカーボンを本格的に扱う
時代においては、「建物に紐づくデータをどう継承するか」という視点がますます重要になる
だろう。
 
ホールライフカーボンの議論というと、新しい技術や材料に目が向きがちである。しかし、す
でに存在する建物ストックに目を向け、その中に蓄積されたデータを活用することは、より即
効性のある取り組みでもある。既存建物は、単なる過去の遺産ではなく、次の意思決定を支え
る“データ資産”として再評価されるべき存在である。これからの建築実務では、「どのような
建物をつくるか」に加えて、「どのようなデータを残し、活かしていくか」が問われていく。
ホールライフカーボンという新しい評価軸は、建物そのものだけでなく、その背後にあるデー
タの価値にも光を当てている。既存建物をデータ資産として捉え直すことは、建築のあり方を
少しずつ、しかし確実に変えていく契機になるのではないだろうか。

 東大・安田講堂点群データ

 東大・安田講堂点群データ

谷口 景一朗 氏

東京大学大学院 特任准教授 / スタジオノラ 共同主宰