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コラム

文化の不動産価値

2018.07.31

ArchiFuture's Eye                  noiz / gluon 豊田啓介

LAの滞在先でこの文章を書いている。
 
LAでは友人のゲストハウスに家族と滞在しているのだがなんとそのゲストハウスというのが
ケーススタディハウス(CSH)の一つ、サーリネンとイームズの設計になるあの住宅だった(到
着するまで知らなかったので、知ったときの驚きといったらもう…)。広い庭にはプールと別
棟が増築され、現代の生活に必要とされる機能と広さは担保されているとはいえ、オリジナル
のCSHが今もそのまま現役のゲストハウスとして使われている。当然ながら内装もほぼ当時の
ままなので天井は高くひろびろとしていて、おそらく今では諸々法的に難しいだろう数々の
ディテールや色遣いなど、真にオリジナルなミッドセンチュリーな雰囲気はファッションやテ
レビの撮影などにも人気だという。なんともまあ贅沢な時間を過ごさせてもらっている。
 
CSHと言えばアメリカ、特にカリフォルニアの歴史からすると相応に古い歴史的建造物と言っ
ていい。かなり乱暴な比較として、日本のいわゆる記録の残る建築の歴史がざっくりと飛鳥時
代あたりから始まったと仮定して足掛け1500年の歴史を持つのに対しカリフォルニアの建築
の歴史が1700年前後のスペインの入植に起源を持つとすると足掛け300年、こんな単純な比較
は意味がないとも思うが約5倍の違いがあるこの期間を比例比較すると20世紀半ば(約50
年前)のCSHごろの建築群は日本で言えば1700年代の統一された様式の住宅系建築群例える
なら後期大徳寺塔頭群の方丈建築に相当する。つまりCSHに滞在するというのは、孤篷庵あた
りの方丈に滞在させてもらっているイメージになる。公共性のある宗教施設でもあるし単純な
比較はできないとはいえ、いずれも重要文化財クラスという点で相応に比較は可能だろう。孤
篷庵が普通に不動産市場に出回ってプレミア付きで売買や賃貸の対象になるという感覚は、少
なくとも日本ではなかなか想像し難い。
 
カリフォルニアの経済が好調ということ一つとってもそう単純な比較は難しいということは
重々承知の上で、でもこうした歴史的な建築物に十分な市場価値が付与され、むしろプレミア
を支払ってでも所有し現役で運用する価値が商業的に存在しているということには一考するだ
けの価値がある。これほど特殊な例でなくとも、もう少し古い時代、19世紀ごろの石造や煉瓦
造の建築群が市の中心部に残るサンフランシスコやニューヨークでも、最もステータスも実際
購入価格も高いのは、ブラウンストーンと呼ばれる古い石造の高級な都市型住宅だったりす
る(少なくともトランプタワーではない)。日本の古建築が木造でしかありえず、かつ古い住
宅ほど土地の面積が大きくかつ容積的な利用効率が低くならざるを得ず、また当然木造住宅と
都市型石造住宅では耐久性に違いがあるとはいえ、こうした石造の歴史建築物もまたさまざま
なインフラやその他現代の生活への適合という点では古くて住みにくい住宅であることは同じ
である。そこを単純に解体新築ではなく相応のコストをかけて手入れしてでも住むということ
に社会が価値を認知し、実際に市場価値として新しい同等の物件以上の付加価値をつけている
状況はどうやって起きているのだろうか。当然歴史的な建造物が多く残されているエリアでは
街並み保存の観点から明確に容積率の制限がかけられて、スクラップ&ビルドの価値が出にく
いようにされているし、歴史的建造物の各種制限には日本よりも厳しい傾向はある。余剰容積
の転売のしくみも法的にいろいろと整理されている(余談になるが僕がSHoP時代にコンセ
プトやマッシングに関ったNYミートパッキングにあるThe Porter Houseという19世紀の倉庫
ビルの改装プロジェクトは、文字通り隣地の歴史的建造物の余剰空中権の移設と敷地境界から
の越境や各道路からのセットバックなど、そうした法的可能性をそのままに視覚化した形態と
なっている)。建築に役所の許可のみでなくコミュニティーボードの許可も必要なシステム等
により、地域のプライドのようなものが反映されやすい法制度も一定の効果を発揮はしている
だろう。それでも都市のもっともプレミアなエリアにこれだけ歴史的な街並みがしっかりと残
されて、かつただの観光地としてではなくプレミアな生活の場として機能している背景には、
単純なシステムの違い以上の何か、数値を超えた価値に対するリスペクトのようなものがより
明確に社会的に共有されていると感じる。アメリカの歴史が浅く歴史へのあこがれが強い云々
と表層的に片付けてしまうのはたやすいが、僕がアメリカに少なからず住んだ実感として、歴
史的・文化的な価値を市場価値として評価・維持するという一つの社会的洗練が、共有感覚と
して明確に、かつ意識的に維持されている結果、すなわち日本の現在の不動産マーケットには
まだ欠けている社会的洗練のあらわれということが多分にあるように見える。
 
いいものやサービスには金を払うべきだし、よいものを維持している個人や法人は相応の対価
を得てしかるべきだ。が、なかなか日本ではこの当たり前の感覚が具体的な「行為」に結びつ
かない。この感覚の違いは他の側面でも見ることができて、例えばニューヨークでストリート
アーティストがいい演奏をしているとする。そこで立ち止まって何らかの形でそのパフォーマ
ンスを楽しんだなら、相応の対価を、小銭でもいいから置いていく(という形をもってリスペ
クトを明確な形として相手に示す)のがマナーであるという当然の了解がそこにはある。仮に
制度にはなっていなくても、そうしたフリーライドに対してアメリカ社会はかなり厳しい。対
して日本では、ストリートアーティストの演奏が終わると、人だかりができていたとしても、
ほとんどの人はお金を残さずに立ち去るのではないか。アメリカの主要な美術館に入館料が設
定されず、あくまで寄付という形で設定されていることにも同じような共有感覚は見ることが
できる(そして日本人は義務でない限りほとんど入場料を払わない)。ストリートアーティス
トに小銭程度を渡す施しめいたことがむしろ上下関係の表明的になり「失礼」になるのではと
いう感覚、衆人環視の中に歩み出てお金を入れる行為への羞恥など、相応の文化的バックグラ
ウンドの違いはある程度想像できるとはいえ、そこには明確な形、より具体的には貨幣や具体
的な行動という形で相手への敬意を示すことが選択を超えた価値であるという文化が明確に差
異として存在する。そうした「文化の市場価値」が明確な対価として表現される共有感覚が、
いわゆる単純な不動産評価の計算式を越えて、建築などの文化的価値を認める前提条件になっ
ているのではないか。いいものにはプレミアを払う価値があると他の人も考えるし、当然一定
数がそうすることが計算できるという感覚、市場価値として保存されるという信頼が、その文
化的価値に単純な経済指標以上の担保を与える。
 
現在の日本の不動産評価基準では、実質築後30年程度で構造体としての評価額がほぼゼロにな
り、土地だけの価値が残り、むしろ古屋は実際の状態とは無関係に解体されるべき重荷になり
さがってしまう。とはいえ多くの中古建築は、実際にはメンテナンスを施すことで十分に継続
利用が可能な場合も多い。もっと既存ストックを有効に活用し、その価値を社会的に愛でるこ
とで新しい価値を創出し、そこに新しい経済的価値をもたらすしくみを作り出そうという動き
は、最近のリノベーションカルチャーなどを筆頭に確実に日本でも顕在化しつつある。しかし
その場合、我々は社会が成熟し、皆が自然にそうした古いものに価値を感じ、自発的にプレミ
アを払う感覚が育つまで待たないといけないのだろうか(その成熟を促すことは言うまでもな
く重要なことだが)。
 
我々は情報社会に住んでいるという。それならもう少しシステマティックに、以前とは異なる
形で古いものや良いものに、個人的な嗜好や専門性もまた取り込んで、市場や社会で共有され
得る明確な価値を与えることはできないだろうか。タクシーがUberに離散化され、ホテルが
Airbnbに、オフィスがWeWorkに流動化されているように、さまざまな分野で価値の離散化と
変動的評価システムが社会実装され、価値のあり方を根本から変えつつある。従来の絶対的な
評価基準を求めるシステムでは難しかった建築物の文化的価値をより相対的かつ流動的に、市
場の価格決定プロセスに組み込むことはできないものか。
 
昨今では歴史的建造物の保存問題というと、呼ばれもしないのに建築家協会的な団体が出てき
て勝手に歴史的評価を叫び、建築界の内輪の価値基準を標榜してその他の経済原理を考慮せず
解体にクレームをつける、半ば迷惑団体のような印象を少なからず社会に持たれてしまってい
ることも自認するべきだろう。無論建築専門家の団体も純粋に善意と責任感にもとづいておこ
なっていることではあるし、多少迷惑がられてもしっかり声を上げていかなければこうした社
会の価値基準は変わらないことも確かではある。
 
しかし今なら、建築の専門家や特定団体の「一方的な」評価の押しつけにはならない形で、こ
うした歴史的な価値を相応に評価し、不動産価値に組み込む仕組みが、何かもう少し違う形で
可能なのではないか。例えば学術論文なら引用数、インフルエンサーならフォロワー数、
GitHubならフォーク数のような今のネット社会ならではの評価と社会的影響力の評価のしく
みが、よりアクティブに、かつ離散的な評価として取り入れられないのだろうか。
 
不動産を純粋に商業的に評価する仕組みも、今後よりそうした動的な指標、例えばブロック
チェーンを組み込んだ方向に進んでいくだろう。おそらくは固定価格と複数の変動価格のハイ
ブリッドなシステムが導入されていくことになるのではないか。特に賃貸市場においては、す
でにUber的変動相場が技術的に可能になっている中価格が固定されている必然性は確実に今
後低下していく。ステータスという価値、歴史的価値、それらを維持するという責任、そうし
た価値の関係性が価格という単層的な評価値に落とし込まれてしまうことはよろしくないとい
う判断もあるかもしれない。それでも、これまでよりはかなり動的に、レスポンシブになる。
まずは試してみることに損はない。
 
文化財に指定された建築物の維持が所有者の負担になりむしろ重荷になることで手放さざるを
得なくなり、建築物が実効性のサイクルから外れ、最後は公共がなんとか博物館的に維持する
という事例も多い。もちろん公共により公開されることも重要だが、そうした責任、負の負担
の部分に関しても、同様のシステムで経済的負担を軽減し、利益享受する側に離散的に負担し
てもらうことで建物が本来の用途で使い続けられるような仕組みも可能になるはずだ。
 
税制ベースの経年減点補正率が住宅ローンの評価額にどこか連動しているような思考停止はも
ういい加減脱して、独自の基準で不動産価値が付けられるようにならないものか。ただただ直
線的に下がっていく不動産評価指標などがあるから、それを跳ね返すだけの産業力がない経済
はデフレ圧力から抜けることができない。固定された右肩下がりの一次方程式以外にも、現代
の我々はたくさん道具を持っている。そしてその燃料になり得る歴史や文化の蓄積は、日本に
はまだまだ沢山ある。それならもっと使おうよ、と思うわけだが…。
 
建築と情報技術というとどうしてもIoTやらBIM化やらというわかりやすい話になりがちだが
むしろこうした固定的な対応表では記述し得ない動的、離散的なシステム実装にこそ、情報技
術が既存の建築、もしくは社会に本質的な貢献をする可能性があるのではないか。歴史に貢献
する手段は既存ストックのリサーチや体系化そのふわっとしたリノベーションだけではない
純粋に数理的なシステム開発や評価プログラムの構築が、むしろより多くの歴史的建築物や街
並みに、より幸せな状態をもたらす可能性は高いのである。
 
建築界というのは建築Loveな人たちが集まっている世界だと信じている。世の中は特別でなく
とも、様々な視点で素敵で、かっこよくて想いがこもってどこか愛せる建築に溢れている
そうした建築のほとんどはきっと、30歳を過ぎても、銀行のローン査定など関係なくまだまだ
機能できると思っているだろうし、もっと活躍したい、愛されたい、生きたいと切実に思って
いることだろう。建築物はよく関係者にとって子供のようなものだと例えられる。愛すべきわ
が子たちを、彼らの努力や成長、個性に関係なく、こんな旧時代的かつ画一的な評価によって
無条件に社会から排除されるような状況に置いたままでいいのだろうか。銀行ごときの評価式
などに、何がわかるというのか。対案を開発し提示するのは、彼らにより良い人生、もとい築
生を送らせてあげるのは、親である我々であるべきだ。






 

豊田 啓介 氏

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