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コラム

シンギュラリティから考える人類の幸福

2015.11.17

ArchiFuture's Eye                慶應義塾大学 池田靖史

リレー連載でもあるので松家さんのコラムを受けてあえてシンギュラリティの話題を続け、
そして猪里さんのSFの話題もフォローしたい。

姿はロボットのような存在ではなくても、世界中のコンピューターネットワークとデータ蓄積
の総体が人類全体の能力を上回る時期(シンギュラリティ)は必ずくる。なぜなら電子的記号
処理機械の登場以来これまでのところその総量は確実かつ指数級数的に増加し続けているから
である。到達時期は多少の差があっても、人類が現在の方針を大転換しその拡大を強力に阻止
しない限りは必ず訪れる未来であり、現時点では2045年前後という説が有力である。なんと
意外にも近く、私自身が生きていてもおかしくない時代なのである。人工知能の分野では学習
機能の発展がついに学習すべきものを自分で発見する段階に達しつつある。Googleの研究者が
神経回路コンピューターの画像の特徴を徐々に抽出し、経験の蓄積から「意味のあるまとまり」
を見いだすことに成功した例は人工知能が自律的な「意識」を持ち始めていることの実例であ
るとする意見もあながち否定できない。

SF映画では人間の能力を超越し意志を持ったコンピューターが人類を繰り返し襲撃しているの
もご存知のとおりだが、現実の世界でもシンギュラリティ到達によっ て人類とその社会が受け
る影響について非常に真剣に研究され始めていて、例えば今ある多くの仕事が高度に自動化さ
れ無人化されると言われている。現在進行中のことでもあるが、ほとんどどんな仕事でも、
ずっと効率的に高速かつ安全確実に実行することができるはずだからである。これを仕事が奪
われると考えるのか、煩雑な労働から解放されると考えるのかが、むしろ問題の原点であるよ
うに思うが、少なくとも建築技術を含む現時点の社会の大勢は後者であるとの前提でIT技術に
よる作業の合理化の方向に突き進んでいる。コンピューターはこの先も人間を安楽にするため
に頼まれた仕事を不満も言わず引き受け続けるだろう。それでは解放された人間は何をすべき
なのか?ゲームでもして楽しく遊んでいればいいのか。ただ既にチェスのようなゲームで起き
ているように人間の能力が計算機に凌駕されることは、結局我々の自尊心の問題なのだろうか。
大変難しい問題だが、ここから先は我々人類とその地球的社会自身がこうした事態に適応でき
る新しい価値観や哲学、倫理観や幸福の定義を確立しなければならないと私は考えている。
コンピューターが我々の望まない未来をつくってしまう暴走を阻止することは可能だとしても、
問題は我々が望む未来が何なのかということなのである。恐れるだけではなく、積極的に人工
的な知能と共存できる人類の未来と幸福を考えることが避けられない時代になって来ている。

計算素子の数と速度そして相互接続、すなわち計算量が飛躍的に増大し再帰的に繰り返された
ときに単純な前提からは想像もつかないような能力を示すことを、 我々はもう十分知っている。
また人間が考案したものが人間を超えないと考えることは、自己学習能力を備えたものには通
用しないことも我々は気がついてい る。なぜなら地球上の全ての生命はそうやって進化して
来たからだ。

これはデザインの分野で人工知能との恊働について進めて来た自分としても次世代に最も責任
を感じる問題だと思う。12月に行われる日本建築学会のシンポジウムでもゲスト講演者を招き
話題として取り上げることにした。

 Googleの研究所がニューラルネットワークで画像認識させることで視覚的な「理解」の構造を
 再現したとされる過程の副産物として自動的に生成される不思議な建築的イメージ。人工知能が
 見た「夢」とも言われ、人物や生物の認識過程の場合の画像は「悪夢」のような実感に満ちあふ
 れている。

 Googleの研究所がニューラルネットワークで画像認識させることで視覚的な「理解」の構造を
 再現したとされる過程の副産物として自動的に生成される不思議な建築的イメージ。人工知能が
 見た「夢」とも言われ、人物や生物の認識過程の場合の画像は「悪夢」のような実感に満ちあふ
 れている。

池田 靖史 氏

東京大学大学院 工学系研究科建築学専攻 特任教授 / 建築情報学会 会長