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コラム

サカモト教授

2018.01.26

ArchiFuture's Eye                  ノイズ 豊田啓介

先日とあるイベントでミュージシャンのサカモト教授とご一緒する機会があった。
 
サカモト教授といってももちろん戦メリの坂本龍一ではなくて、ゲーム音楽を耳コピ演奏した
りアレンジしたりで有名なサカモト教授のほうだ。一緒に登壇したトークも面白かったけれど、
その後にキーボードかぶりつきで見たサカモト教授のミニライブには正直鳥肌が立った。僕は
そんなにゲームをしないしゲーマー文化を共有しているわけでもない中で、ぶっちゃけここま
でゾクゾクするとは予想していなかった。教授のライブで泣く人も多いという話をさもありな
んと感じながら、もっと縦揺れしたい体を理性で抑えつついろいろ考えた。
 
ファミコン世代、もしくは家庭用ビデオゲーム機世代というのは、初期の平安京エイリアンや
ブロックくずし、マリオブラザーズなどの時代から考えれば既に数十年の蓄積を持つ。今の
40代は多かれ少なかれ幼児体験としてこうした経験を持ち、当然それは現在も連綿と引き継が
れている。世代を超えた40年の共有体験というのは相当な積分量になる。以前「ポケモンの半
」というコラムでも書いたが、新しいだけすばらしい技術というだけでは真の市場での価値
や浸透力は持ち得なくて、既に人々の中に形成されたもう半分という強力な基礎を、この分野
は確実に持っている。
 
ただ、ゲームという世界にはどこかネガティブな無意識が付きまとうところがある。特に子供
の頃は、ゲームなんかしてないで○○しなさい、ゲームばっかりやってるとxxといったような、
どんなにゲームが好きでそこに価値を感じていようと、どこかゲームの世界に浸ることにはそ
こはかとないうしろめたさのようなものが、社会通念として刷り込まれている部分がある。非
生産的で個人の世界に閉じこもることは、どこかちょっとはばかられるものという意識はやは
りどこかに存在する。
 
そこにサカモト教授の圧倒的な演奏が生で目の前にやってくる。あの無機質な箱と基板から生
成される電子音に過ぎないと思っていた音が、生身の人間によって目の前で(不思議なコス
チュームに包まれているが)、間違いなくライブでその指と体と鍵盤とで、圧倒的な技術と才
能と共に自在に紡ぎ出されてくる。ああ、ゲーム音楽って「人が」つくっていたんだという当
たり前の事実が再認識されて、人が純粋に楽しんでいいんだという肯定感が場を支配し、それ
らすべてが何か自分自身が、自分の(ちょっと引け目に感じていた)嗜好が、自分の過去が受
け入れられた解放感となってはからずも涙するんじゃないか。ピコピコ電子音とコスチューム
の世界が、圧倒的な包容力で満たされる聖堂になる瞬間を見た。
 
ライブ演奏前のトークが、クリエイティブディレクターの室井さんも交えた「共有体験」につ
いてだったのだけれど、技術的可能性やあるべき論をいとも簡単に飛び越えて、何か心の奥底
にある琴線をぐっと掴むものというのは確実にある。そうした感覚を誘発するものは何かをた
だ共有しているだけでなく、漠然とした不安までを開放してそれを人に受け入れてもらうとい
うこと、実は根本的なところで人とつながっていたんだという再確認(つまりは受容であり肯
定であり接続の感覚)などの要素が大きな役割をしている。この受容や肯定の感覚こそがコ
ミュニティの基礎なのだろう。コミュニティとは単なる共有だけでも不十分だし、そこには必
ずしも外部との差異化や閉じ込めといった枠や領域性は必要ではないし、同じ場所、同じ団体、
同じ袋に包まれているような物理的制約も本質的には求めない。
 
近代まではある共有性を持つコミュニティというと、例えば村落やら企業やら、ある程度場所
的な制約や空間の共有、明確な所属の境界があることが前提だった(唯一そうした場所性に依
存しないコミュニティの在り方が宗教だったから、サカモト教授は伝統的には宗教家、もしく
はシャーマンに属するのかもしれない)。しかしネットワーク技術やそれによるコミュニケー
ションの離散的、並行処理的、時差的な手法の一般化が急速に浸透するにつけ、場所拘束とは
異なる「村落」の形が確実に、かつ多様に生じている。従来、建築や都市という物理的構造物
が担っていたこうした共有体験のフレームという役割や機能が、どんどんハードからソフトに
移行している。そうしたシステムのデザインやそこで共有される物語、それにより開かれる受
容の体験がコミュニティ形成という点でより重要度を増す中で、これまでコミュニティ形成の
重要なキャスティングボードを担っていると信じていた我々建築家は一体何ができるだろう。
物理的な制約などいくらでも飛び越えて離散的にコミュニティが多重に形成され活用されてい
く社会で、スカイツリーよりもスマホゲームが強い拘束力を持つ社会の中で、建築はどんな役
割の変化をしていくのだろう。それは単に一蘭やカプセルホテルを肯定し、デザインを洗練さ
せることではない。
 
さらに言えば、そうした共有体験ベースの非物理拘束型コミュニティは、一般にある程度ニッ
チであることが前提になっているように見える。ピンポイントの嗜好性の共有という偏った
エッジが立っていることが、ローカルに強い求心力を保つための条件であるように見える。
では、そうした離散的コミュニティがマスへとスケールと多様性の組み込みによる脱皮を経る
には、どのような操作や変化が必要になるのだろうか。
 
非物理拘束型社会でのニッチの共同体という価値や構造、マスであるということの価値や構造、
それらのデザイン可能性や制御可能性、スケールを超えた類似性と差異、そうした事象もまた、
人間社会のコミュニティプラットフォームを「デザイン」し「構築」するという建築界が扱っ
てきたと自負する役割だとするなら、それらもまた拡張的な建築である。建築界はもっと本気
でこうした分野に取り組むべきなんじゃないか。
 
打ち上げのディナーでサカモト教授が、音楽は1.リズム、2.ハーモニー、3.メロディで
構成されると言っていた。リズムという時間軸、ハーモニーという空間軸を扱うという意味で
音楽はよく建築の立体的構成と比較されてきた。メロディはそれらの比例的調和を伴う総合的
な(空間的な)形態と対置されることが多かったように思うが、サカモト教授の話を聞いてい
て、メロディは物語(物質の形態的関係性ではなく、むしろ場所拘束されない関係性)のデザ
インに相当するものなんじゃないかと思いはじめた。では、今の建築で、メロディーをデザイ
ンするノウハウは、音楽理論のように研究・共有はされているだろうか。デジタル技術がどん
どん異なる分野の構造や価値、関係性の在り方をシームレスに繋ぎつつある中、建築や都市と
いう分野は、どれだけモノの間にある関係性の技術やデザインに投資できているだろうか。

豊田 啓介 氏

noiz パートナー /    gluon パートナー