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コラム

脱炭素化の先を見据えて

2022.05.31

パラメトリック・ボイス
                     東京大学 / スタジオノラ 谷口 景一朗


2020年10月の臨時国会にて菅義偉首相(当時)が「2050年カーボンニュートラル、脱炭素
社会の実現を目指す」と所信表明をしてから、カーボンニュートラル実現に向けた日本国内で
の議論がこれまで以上に活発化している。2025年度の住宅の省エネ基準への適合義務化や非
住宅建築物の省エネ基準の段階的引き上げ、太陽光発電設備の導入拡大など、住宅・建築物に
おけるさらなる省エネルギー化・脱炭素化に向けた取り組みの一層の充実・強化が求められて
おり、もはや建築設計において脱炭素化とは、耐震や防火といった項目と同レベルで設計者に
課せられた最重要の課題の1つとなっている。

一方で、このような省エネルギー化・脱炭素化を追求した建築において、そこで働き、住まう
人にとっての快適性や健康性、知的生産性といった付加価値となる要素に着目した事例が近年
増えつつある。建物の省エネルギー性能を評価・認証する制度として1990年代に開発・公開
されたBREEAM(BRE Environmental Assessment Method)やLEED(Leadership in
Energy and Environmental Design)はすでに世界各国で認証実績を増やしている。それら
に加えて、2010年代にはWELLやFitwelといった人の健康性やウェルネスに着目した認証制度
が次々と運用を開始している。国内においてもオフィスビルで執務するワーカーの健康性・快
適性に着目したCASBEE-ウェルネスオフィスが2019年に公開された。このように、ここ10年
の間に建物の省エネルギー性能だけでなく、建物利用者の健康性やウェルネスに着目した認証
制度が多く整備されてきていることは、多くの企業が健康性・知的生産性といった付加価値を
追求し、優秀な人材確保を目指そうとしている機運が高まっていることの証であろう。

そんな時代に環境シミュレーションはどのように使われるべきなのか。
改めて言うまでもないが、シミュレーションとは特定の条件設定において実現される環境をコ
ンピュータ上で再現する技術である。その条件の与え方を間違わなければ、かなりの精度でそ
の条件下における物理環境を予測することができる。しかし、その物理環境において人が快適
と感じるかどうかを予測しようとすると、途端に難易度が高くなる。それは、人それぞれに快
適と感じる物理環境が異なることに加えて、同じ人でもその時の体調やその場所に来るまでの
移動経路や環境履歴によって同じ物理環境でも異なる快適感を感じてしまうことに起因する
建築環境工学の分野において、これまでは人の快適性を1つのモデルに当てはめて、空間にお
ける温熱環境の快適性分布をあらかじめ予測することを目指してきた。しかし、この手法は
一見人による物理環境の感じ方を表現できているように見えて、実際のところは1つの快適性
のモデルにぴったり当てはまる人はわずかであり、それ以外の人にとってその物理環境が快適
であるという確証はないという問題が常に付きまとっていた。では、どうすればいいのか。明
確な答えはまだ持ち合わせてはいないが、その解決の糸口となり得る研究の1つとして、機械
学習を応用し事前のシミュレーションといくつかの温熱環境センサを組み合わせることで、リ
アルタイムで空間の物理環境を可視化し続けるシステムの開発を進めている。利用者は自らの
いる場所の物理環境とそのときの快適感との関係をストックしていくことができる。そうする
初めのうちは自らがどのような物理環境を欲しているのか想像もつかなかった人でも、し
ばらくすると自身の体調などを考慮した望ましい物理環境を選択できるようになるだろう。こ
れまで漠然と良いとされていた「環境のムラ」のような事象も、その良さを定量的に示すこと
が出来るようになるのではないか。さらには、その人の嗜好に合わせた物理環境の場をリコメ
ンドするようなシステムの開発にもつながると考えている。

「快適な空間が提供される」時代から、「快適な空間を自ら獲得しにいく」時代へ。そのため
の手持ちの地図となり得るような環境シミュレーションの使い方に可能性を感じている。

   機械学習を用いたリアルタイムでの空間の物理環境予測の例

   機械学習を用いたリアルタイムでの空間の物理環境予測の例

谷口 景一朗 氏

東京大学大学院 特任准教授 / スタジオノラ 共同主宰