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コラム

マクロなものに関与する意志と手段

2016.01.12

ArchiFuture's Eye                  ノイズ 豊田啓介

僕には二人の子供がいる。7歳の息子と5歳の娘、親バカは少し許してもらうとして、まあ(本
当に)かわいいし、彼らには自分たちの生きる道を自ら選択できる世界を生きて欲しいと心か
ら思う。以前から当然理解していたことではあるけれど、彼らの成長につれて子ども達に真っ
当な世界を環境を残したい、残さなければいけないという意識はやはりどんどん強くなるよう
だ。
 
 
年末の台北の食事の席で、オーストラリアの友人と何気ない会話をした。会話の最初はオース
トラリア政府が日本の調査捕鯨という名の下に行っている実質商業捕鯨を表立って非難してい
るのを日本人はどうとらえているのかという質問で、日本でのシーシェパードのような団体の
行動とそれに対する反感、ある国がどこをして自分の海と感じるか、鯨に対する倫理感と肉牛
のそれとの違いは、犬・猿・雉(?)いろんなものを食べる文化の中で一体どの国が誰が他の
食習慣について正か不正か審判を行えるのか、でもそれなら汚染物質を垂れ流している国を非
難することはできないのか等々、思いがけずいろんな議論に膨らんだ。国ごとに、もしくは
その中のより小さなコミュニティーごとに異なる文化と価値観があることは当然ではあるし、
そうした多様性こそが社会の正気を保つ条件だという視点に立てば、批判をするのも正だし捕
鯨を続けるのも正だというありふれた結論に落ち着いてしまう。総論は総論として、それでも
個別の状況や視点に対して一つの行為や判断がどう映るのか、どういう影響を与えるのか等の
各論を、具体的にかつ丁寧に、一つ一つ議論しながら糸をほぐしていく努力を止めるわけには
いかない。
 
マグロの絶滅が現実的に予測されている中、大型チェーンの回転寿司には今日も大きな列がで
き、商社はより安価な魚の買い付けに走り回る。欲しいものは欲しい、買いたければ買うとい
うのが資本主義の基本ではある。が、日常の中で何かを感情として欲しがる気持ちと、それで
も理性で制御する姿勢との綱引きの中で、理性が感情をコントロールすることで何かの社会的
な行為の選択をする、判断する、評価の声を挙げるということ(つまりはひとつひとつの購買
などの行動で投票をするということ)を、もっともっと日常の具体的な場面で意識して積み上
げていかなければならない時代なんだと思う。
 
僕はデザインプロポーザルの中にエコとか森のようなとか、そういった安直なコピーを入れる
ことにかなり違和感を感じるのだけれど、木を使えばエコとか御柱を使えば伝統的とか、そう
いう皮相的な直喩を専門家としての建築家が社会とのコミュニケーション手段としてあまりに
安易に濫用し、そうした理解だけで物事を判断する傾向を助長するような状況は、社会の主流
をより低次の感情的世界に引き戻すことに加担していると考える。そこにさらに個人や企業の
エゴが跋扈して、本当にこんなことでいいのか建築界、と最近心から感じる事は多い。自分と
してもプレゼンテーションを通過するためにそうした表現を使わざるを得ない個別の現実と、
自分の信じるあるべき大方針とのジレンマに日々葛藤していて簡単に答えは出ないけれど、心
に気持ちいいだけの言葉、通りやすいだけの言葉は社会的マスターベーションにしかならない
とは思う。
 
僕らが特に意識して切り開こうとしているコンピューテーショナルなデザイン手法は、こうし
たマクロな、直接的には個人が扱えないような複合的な系の価値や構造を、これまでとは違う
形で「それなりに」コントロールし、一定の意志と選択、美意識をより効果的に織り込むこと
を「十分実用的なレベルで」可能にする。現代は、おそらく人類が初めてそうした非線形な系
への間接的関与の客観的方法を持ち始めている、かなり特異で面白い状況なのだろう。僕らは
まだまだ実験的でほんの遊びのようなことしか実装できてはいないけれど、徐々にコントロー
ルの手法とシステムと理論とを開拓し、狭小な個別の建築デザインの世界にとどまらず、マク
ロな事象、社会に対する喫緊の問題にもこれまでとは全く別のアプローチで取り組みうるよう
な手法に育てていきたいし、きっと可能になると信じている。蝶にだって「十分に」気象がコ
ントロールできる手段はあるはずだ。
 
 
年初だからというわけでもないけれど、ちょっと大きなことを、しかもかなり直球で書き連ね
てしまいました。皆様、あけましておめでとうございます。

豊田 啓介 氏

noiz パートナー /    gluon パートナー