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コラム

マザー・グースの唄~建築と情報の知識基盤

2023.09.15

パラメトリック・ボイス           NTTファシリティーズ 松岡辰郎

イギリスの伝承童謡は「マザー・グースの唄」として知られている。といってもマザー・
グースという名称は、18世紀にイギリスで伝承童謡集が出版された際に版元がフランスの作
家シャルル・ペローの童話集の副題「鵞鳥おばさんのコント」からタイトルを借用したこと
で一般化したもので、元々はイギリスの伝承童謡とは関係がないらしい。総数800篇あまり
が現存しているイギリスの伝承童謡は、作者が判明している一部のものを除けばそれぞれが
童謡として市井で語り継がれてきた。これらを集成する仕事が18世紀、19世紀、20世紀に
行われ、19世紀のジェームス・オーチャード・ハリウェルが編纂・出版した際の"Nursery
Rhymes"が以降イギリスの伝承童謡の総称として認知されるようになっている。北原白秋、
竹友藻風、谷川俊太郎の和訳が知られているが、親しみやすい口語体から国内では多くの人
が谷川訳で「マザー・グースの唄」に接しているのではないかと思う。

イギリスの伝承童謡は歴史上の出来事を示すもの、権力や体制に対する批判や揶揄、当時の
風俗や習慣なぞなぞや言葉遊び更には意味不明なもの(一部では残酷な表現も見られる)
とバラエテに富んでいるが大半が口ずさみやすい長さで韻を踏むという特徴を持つ
イクスピアはある程度の語彙と教養を身に付けなければ読めるものではないが、多くの英語
圏の人にとって「マザー・グースの唄」は幼少の頃から身近に接するもので、言語を覚える
のと並行して刷り込まれるものらしい。
ハンプティ・ダンプティやロンドン・ブリッジ(終盤に登場する「番人」は橋梁工事におけ
る人柱の習慣の暗喩という説がある)は童謡としてよく知られているし、文学や音楽を始め
とする芸術分野でも伝承童謡のタイトルや内容をモチーフとするものはいくらでも見つけら
れる。主要メディアからタブロイド紙に至るまで、ニュース等の見出しで伝承童謡を引用し
た表現が使われていることに気がつくことも少なくない。ドクター・フェルといえばなんと
なく嫌な人、ジョージー・ポージーといえば弱いものはいじめるが強いものからはすぐに逃
げる男の子、ジャックの相方と言えばジル(なぜか二人は水を汲むために山に登っていく)、
パイと言えばジャック・ホーナーや24羽のクロツグミ(余談だが筆者は「6ペンスの唄」が
一番のお気に入りである)……と、明示しなくてもニュアンスや背景が共有できる知識基盤
となっている。イギリスの伝承童謡が「辞書に載っていない英語文化の基盤」と呼ばれる由
縁がこのあたりにあるのだろう。

建築領域は、芸術や工学だけでなく社会学や人文学の基礎的な知識の共有によって成立して
いる学際的・分野横断的なものだと言えるだろう。とは言え「建築の仕事」が建物を設計し
て建設することと同義とした場合、例外はあるものの「建築の仕事」は主として意匠・構
造・設備の専門家による協働を指すことになる。ここでの協働者は、互いの専門領域を含む
基本的な建築分野の知識を共有する。知識基盤の共有範囲が広ければ、相互理解や合意形成
に至るめざすべき方向性やゴールのイメージも共有しやすいかも知れない。
建築領域を少し拡張し、「建築の仕事」を建築生産とFMや運営・維持管理を包含する建物
ライフサイクル全体とした場合、協働者に建築領域の専門家以外のメンバーが含まれること
となり、建築分野の基本的な知識のみが共有できる知識基盤ではなくなる。協働者に建物
オーナーや建物をビジネスツールとして利用する事業者が加われば、共有すべき知識は経営
や財務会計、資産管理、更には不動産取引や賃貸契約にまで広がる。流石にすべての協働者
で深い範囲での専門知識をすべて共有することは容易ではないが、建物ライフサイクルマネ
ジメント全体を見据えた問題設定や方針策定における適正な合意形成を図るには、協働者で
共有できるなんらかの知識基盤が必要だろう。
以前新築プロジェクトで、竣工後の建物運用を含めた建物ライフサイクルマネジメントのた
めのBIM導入に関わったことがある。この時、建築生産側と運営・維持管理側で建物の見方
や用語、部位・機器の範囲や分類体系の考え方に、決して少なくない差異があることが判明
した。そのため、建築生産から運営・維持管理に至る建物ライフサイクル全体で共有する建
物情報のEIR (Employer Information Requirements)を作成する際に、協働者間で建物構
成要素や情報要件に関する知識の共有と相互理解を図る必要が生じた。この時は工程間での
建物情報の継承・交換を目的とし、建物の部位・機器やスペースといった建物要素の構成の
規約や個々のモノを特定するためのコード付与ルールといったものを標準化した。このよう
に、特に工程横断的な建物情報流通の実現には、対象物の名前や分け方だけでなく命名規則
や分類手順といたルルについても共有可能な知識基盤として整備することが必須となる。

近年、建築は情報領域の方向に大きく拡張されている。必ずしも物理的に建物を建てること
だけが「建築の仕事」とは言えなくなりつつある状況で、情報をはじめとする建築領域外の
専門家との協働で「建築の仕事」をする、という機会が増えている。
拡大する建築と情報という領域において、リアルとバーチャルの両時空で建物がライフサイ
クルを全うするために「建築の仕事」をする時代には、協働者間で共有されるべき知識基盤
が整備・提供される必要があるだろう。現在筆者はまだ明確な答にたどり着けていないが、
建築の専門家が知っておくべき情報領域の知識と情報の専門家が知っておくべき建築領域の
知識を足す、または共通項を絞り込む、といった単純なものではなさそうだとも思う。建物
が存在するための背景や動機としての社会全般の広い知識も必要となるだろうが、それだけ
がゴールでもないだろう。

建築と情報の領域における共有すべき知識は、CKE(Common Knowledge Environment)
とでも呼ぶべき知識基盤の将来の姿と果たすべき役割を、建物のCDE(Common Data Environment)やその他のリアルやバーチャルとの関係を含めて検討されるべきものと考え
ている。

 

 "The Oxford Dictionary of NURSERY RHYMES", Edited by Iona and Peter Opie,
 Oxford University Press, 1951 (Second Edition 1997)

 20世紀半ばにイギリスの伝承童謡研究者オーピー夫妻によってまとめられた「オックス
 フォード版・伝承童謡辞典」。現時点で最も多く500篇を超える伝承童謡が収集・分類さ
 れており、それぞれの唄に対する歴史的背景や解釈と解説が載せられている。


 

松岡 辰郎 氏

NTTファシリティーズ NTT本部 サービス推進部 エンジニアリング部門  設計情報管理センター